生きるということも流れなのだと、この映画を観てあらためて思う。楽しい思い出も、悲しい思い出も、すべては流れていく。それに抗うことはできない。 しかし、それはただの諦めでもない。この抗いでも諦めでもない感覚が、人々の立ち居振る舞いや風景に深く、静かに映し出されていて、だから私は、これが私たちの希望ではないのかと感じはじめるのだ。
物語のなかで絶えず「光」と「水」の存在が瑞波たちの心に寄り添い続けている。 故郷の風景を見つめる3人の感情が、水の波紋のように重なり合い呼応する。 自分1人では扱いきれない重みの感情を持ったとき、 その感情を流し出す先、預けゆだねる場所があるならどんな場所だろう。 瑞波にとっては「川」でなければならなかった。 光を映す川面と見えない川底があるように、 生きている時間に寄り添う"見えない時間の広がり"に包まれるようだった。
川を歩くと時間の流れは穏やかになる。記憶に焼きついた川に帰るとき、思い出が蘇る。水の底に溜まった記憶を思い出すように。 映画に映された傷跡の残る球磨川を見つめながら、息子を亡くした瑞波の揺らぐ感情に思いを馳せていた。 この映画に身をゆだねるとき、私の中に流れる時間もまた穏やかになる。
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